諸堂・文化財
仁王門
鉄門
御成の間
祖師堂
天明の水
額堂
鐘楼
本堂(三軌堂)
有吉佐和子の碑
日朝堂
二十三夜堂
浄行堂
大玄関
五重石塔
書院庭園
子育観音
宝塔
千部講中石塔
織部燈籠
仁王門(山門)におうもん-さんもん
境内の南正面に建つ「仁王門」は、天明7年(1787)の再建で二層造りのため桜門とも呼ばれ、上層に廻縁をめぐらし、獅子・龍・華などの彫刻が絢爛にほどこされています。
仁王門の左右には、徳川四代将軍家綱公が妙法寺の地頭所日吉山王社に寄進したとされる金剛力士像(仁王様)が安置されています。
その姿は筋肉隆々で、右の像は口を大きく開け「あ」と叫び、左の像は口を「うん」と固く結んで力強さを表しています。左右の像は「あ・うん」の呼吸で妙法寺をお守りしているのです。
鉄門てつもん
明治11年(1878)、日本の近代建築学会の恩師といわれる英国人J・コンドル博士(鹿鳴館・上野博物館・ニコライ堂などを設計)設計による貴重な和洋折衷様式の鉄門です。
扉上の中心に極彩色の鳳凰を抱く鉄門は、日本寺院の門としては、特殊なもので、文明開化を推進した和洋折衷を強く意識した門と言えるでしょう。当時としては斬新なデザインでしたので、ものめずらしさに見物に訪れる人も多かったようです。
御成の間おなりのま
江戸時代後期、堀ノ内村は徳川将軍家の鷹場の中にあり、妙法寺は将軍の休息をとる御膳所として使われていました。
『御成の間』は、将軍が野遊の際に妙法寺に立ち寄った折り、その御座所として使用した座敷であります。境内の東奥の庭に面した妙法寺書院の奥にあり、現在では千部会や御会式など行事の際に「お経頂戴の間」として活用されてます。
文化14年(1817)四月に11代将軍家斉による最初の御成りがあり、その後文政2年(1819)にも再び家斉が、天保10年(1839)と弘化3年(1846)には12代家慶が訪れています。また御三卿の一ッ橋家、田安家の御膳所としても使われており、15代将軍となる慶喜も嘉永2年(1849)に訪れ、太神楽を上覧しています。明治に入ってからは、28年(1895)に閑院宮殿下が訪れ宿泊されています。
将軍の座る上段の間は一段高くなっていて、天井・床の間・腰障子には狩野幽玄常信の筆により、それぞれ雁・山水・草木を主題とした水墨による障壁画が描かれています。建立より数度の移築・改修がなされていますが、江戸後期の書院造りのようすを伝える貴重な建築であり、昭和40年に東京都の有形文化財に指定されました。
祖師堂そしどう
仁王門をくぐると、目の前に見える妙法寺で最も大きなお堂が「祖師堂」です。正面の御簾の奥に「祖師御尊像」つまり「除厄け祖師像」が奉安されています。
この祖師像は、「おそっさま」と呼ばれお開帳された方は、そのご尊顔を拝することが出来ます。除厄け・家内安全・病気平癒のご祈願は、この祖師堂で受けることができます。
堂内は、天井や壁が金箔で覆われており、迦陵頻伽(仏教で極楽または雪山にいるという想像上の鳥)の彫物がありまさに絢爛豪華なたたずまいをみせています。また仏の住む珠弥山の中腹にある東西南北の門を守護する四天王である廣目天(西方を守護し、災難から守る神)・増長天(南方を守護し、病を治す神)の像が堂内奥に奉安され、妙法寺を守護しています。
※家内安全・病気平癒・事業繁栄など
波の伊八なみのいはち
「波の伊八」江戸時代から昭和にかけて房総半島を中心に、五代にわたり、寺社の欄門や向拝を彫った宮彫り師一族です。特に、初代の 「武志伊八信由」は少年の頃より手先が器用で、19歳で鴨川市鏡忍寺祖師堂の飾りを彫り、73歳でなくなるまで数多くの作品を残しました。
枠からはみだした「龍」など型にはまらない作風は、現代アートを超え、彼の天才ぶりを遺憾なく発揮し、見る者を震え上がらせます。
天明の水てんめいのみず
祖師堂の西前にある手水舎は、天明2年(1782)、第十七世日研上人の時、渇水のために掘った井戸で、妙法寺の水屋といわれる所以があります。
この井戸は、天明の当時から未だに涸れることなく清水をたたえています。
額堂がくどう
仁王門を入ると、左手(境内南東隅)にあるのが「額堂」で、文化11年(1814年)に建立されたと記録が残っています。
この種の建物は、他に例が少なく貴重なものであります。「額堂」は、いわば巨大絵馬のアートギャラリーで、奉納絵馬には見るべきものも多くあります。
ここは、オープンスペースになっているのでどなたでもお気軽に巨大絵馬を鑑賞することができます。
鐘楼しょうろう
祖師堂の東前に鐘楼があります。梵鐘には「鐘の音は妙法の声、鐘を打てば仏と一つになる」という意味の文字が刻印されています。
享保10年(1725)、第十世日弘上人の代に鋳造されたとされています。恒例の大晦日から元旦にかけての除夜の鐘は、この妙法の鐘が界隈に鳴り響きます。
本堂(三軌堂)ほんどう-さんきどう
祖師堂の北東奥にあるのが「本堂」で、三軌堂とも称され、主に檀家の方々の法要行事等が営まれます。「三軌」とは、如来の衣・座・室を表し、法華経を信じ説く人の三つの心構えを表しています。
正面に奉安されている「おそっさま」は、昔、出開帳といって多くの人々がお参りできるように他所に持ち出された祖師像です。左側に奉安されている立像は「旭が森のおそっさま」で、清澄の旭が森で朝日に向かい御題目を唱えた姿を現しています。
文政2年(1819)に建立された本堂は、絢爛さが目を引く祖師堂と対照的に、落ち着いたたたずまいをみせています。
有吉佐和子の碑ありよしさわこのひ
『複合汚染』『恍惚の人』などのベストセラーで知られる作家の有吉佐和子さんは妙法寺のすぐ近くに住んでいました。境内を通って帰宅されることも多かったということです。
ご当人はキリスト教の信者だったのですが、妙法寺をこよなく愛されていたこともあり、「有吉佐和子の碑」が境内に作られました。
日朝堂にっちょうどう
本堂の左奥に建つ「日朝堂」は、文政11年(1828)第二十世日憲上人代に創立され、身延山十一世行学院日朝上人の御尊像が奉安されています。
室町時代、多くの学業を成し遂げた日朝上人は、眼病を患うほど勉学に精進されました。回復後、ご自身と同じように眼病を患った人々を救いたいと大願をたてたところから、「学問と眼病の守護」としても崇められるようになりました。
稀世の学匠として高名であったことから、学業増進・受験合格等、勉学の願いが叶えられることで有名になりました。
受験シーズンになると多くの人々が訪れています。また絵馬の奉納による祈願も盛んに行われ、合格された人からの報告や歓びの声も多く寄せられています。
二十三夜堂にじゅうさんやどう
二十三夜様とはお月様を神格化した神様で、正式には二十三夜尊大月天王と言い、二十三夜堂というお堂にご安置されております。 このお堂は毎月二十三日しか開帳されないので、毎月大勢の方々が参拝され、良縁や財運を呼ぶとして御利益を授かっています。
祖師堂ではこの日だけ堂内西側に、二十三夜尊の掛け軸をお祀りして、午前十時と午後一時から僧侶がお経を読み法味を捧げ、その功徳を参拝者が授かっています。
毎月23日のみ「二十三夜堂」が開かれ、二十三夜様の御祈願を受け付けています。 10月23日には、二十三夜尊大祭を行っております。
浄行堂じょうぎょうどう
二十三夜堂の東側にある「浄行堂」は、浄行様のお身体を清水で洗い、祈願することによって病気治癒・家内繁栄の御利益があるとされています。
また自分の体の悪いところと同じところをタワシでこすると、良くなるとされています。浄行様の御尊像は、古い石像ですが、そのお身体は独特の光沢を宿されています。お堂の脇には、祈願成就を願う信者の方々により奉納された千羽鶴がかけられています。
大玄関おおげんかん
妙法寺で行われる特別行事のときに使う正式な玄関です。
鉄門の奥にあり、格調高い門構えとなっています。
書院庭園しょいんていえん
御成の間と諸大名の使者が来寺の際、応接間として使った座敷「使者の間」との間には書院があり、書院から手入れの行き届いた庭園がみられます。(書院は法事の控室になる事があるので、要相談)
子育観音こそだてかんのん
武蔵野のおもかげを残す緑多い境内には、観音様が立っています。 観音様は、観世音菩薩といいます。 観音様は、世の人の苦しみを聞き届け、災厄から救います。 その清らかで慈しみ深い眼差しは、どんな悩みもとかします。
『南無観世音菩薩 念彼観音力』と唱えれば男の子も女の子もすくすく育ちます。
宝塔ほうとう
この「宝塔」は、高さ4.5mからなり、平成14年(2002)10月12日宗祖報恩御会式にあわせ、開眼除幕式が盛大に行われました。 交通量の多い環七通りの安全を見守っています。
千部講中石塔せんぶこうちゅうせきとう
妙法寺の境内、祖師堂の裏に足を運ぶと二基の石塔が建っています。この二基の石塔は、寛政年間の祖師堂再建築時に建てられたもので、江戸期の妙法寺が講中に支えられてきたことを知ることができます。
向かって右の石塔には、上段に「御題目」その下に「両国(東西講中)」右面には、祖師五百五十遠忌報恩、左面には、参加講中各家の、先祖代々の供養さらに家内安全の祈念が刻まれています。裏面には、祖師堂再建に際して行った奉納の内容や、千部施主参加の旨が刻まれています。左の石塔には、上段に「お題目と日蓮聖人のご両親の法号」その下に「三日講」「千部講」、宣流布」の文が刻まれています。「両国(東西講中)」の塔には、東は習志野、西は八王子、北は鳩ケ谷、南は小田原というように、関東一円の講中の名が刻まれています。この講中それぞれが、妙法寺へ寄進をしていたようです。
当時の妙法寺は、全国からこれらの千部講中が集まり千部会に参加していたと考えられ、その賑わいをうかがい知ることができます。
織部燈籠おりべとうろう
この石燈籠は、「織部型燈籠(キリシタン燈籠)」と呼ばれ、織田信長や豊臣秀吉らに仕えた戦国武士であり、かつ千利休の高弟にして利休の町人向けの茶を武家風に改めた茶人でもある古田織部(1544~1615)が創案したとされています。
『織部燈籠』の特徴としては、竿の上部が丸く左右に張り出し十字架の様な形をしております。また、竿の下部に龕を作って仏像等を彫ることが多いのですが、當山の『織部型燈籠』には、それが見られません。 その代わりに表面に「慶長廿乙卯年二月吉日」、裏面に「拾之内堀村源二立」の文字が彫られています。 資料によりますと、同形で同銘文を持つ燈籠が都内にも所有されていて、当時は十基造立されたようです。
しかし、この紀年銘の年代は妙法寺成立以前ですので、もとの所在地や當山に移された経緯等については不明ですが、 遥か昔より信者の方々を見守ってきたこの燈籠が永い歴史を経て妙法寺に移され、現在に至っているのは大変興味深いものです。